あるグループのOSMに呼んでもらえました。

片道7時間。2泊3日の旅です。

罪悪感が3割、楽しみが7割。

去年もお声が掛かったのにドタキャンしてしまいました(伝染病都合)

半年後に埋め合わせで遊びに行こうとしたけどドタキャンしてしまいました(伝染病都合)

このドタキャン劇が罪悪感の表れです。

関係者皆様、ご迷惑をお掛けしました。

それでもそれ以上に東北の仲間たちの前でスピーチができる。

これが楽しみで仕方なかったんです。

回復しながら生きている重度のギャンブル依存症者として

再発せずに済んでいるガンサバイバーとして

そして障がい児の父として

仲間と、どのように関わり生きてきたのか

当日のスピーチのような熱量は伝わらないと思いますが

記録のために書き残します。

テーマ

『どうすればうまくいくのか〜行動して見えてきたもの〜』

どうすれば、うまくいくのか。

僕なりの答えは以下の一文です。

依存行為を辞めたいと真剣に願うこと、そして、その思いを行動で示すこと。

僕の経験では依存行為を真剣にやめたいと思う段階というか

抑止力の階段が4つありました。

その4つを紐解いて説明することで、どうすればうまくいくのかをお伝えできると思います。

1つ目の階段は妻の存在です。

私は妻を幸せにする覚悟が薄いうちに結婚してしまいました。

当時26歳にもなって・・・の話です。

未婚の時の借金は両親にもみ消してもらっていて両親も

『恥ずかしいから、借金の事実は言わなくて良い』と念押ししてくれていました。

僕も

『いつかはギャンブルも辞めて幸せにする』

その程度の覚悟しか持ってませんでした。

結婚後も2回目、3回目と借金を繰り返すうちに

当たり前ですが親も返済してくれなくなりました。

いつの間にか年を取り当時35歳になってしまった私は背に腹を変えられず

大借金の事実を妻に伝えました。

その時の私の選択肢は2つしかありませんでした。

書き残すには心苦しいので表現を変えますが

①無罪放免を受けて許されること

②許されなければ短い人生に幕引きをすること

妻は①を選びませんでした。

私は②を選ぶしかありませんでしたが、こんなに行動に移すのが早い僕でも

いざとなると、楽しかった想い出が走馬灯のように駆け抜け全く動けませんでした。

楽しかったことばかり浮かんできて涙だけどんどん流れていきます。

微動だに出来ないっていう表現でしょうか。

40分くらい経った頃、少しだけ考えが変わります。


その窓から飛び降りれば私だけでもいけるのでは・・。

ずっと窓を見つめて自分が世の中から居なくなるイメージを想像していました。

ここで、1つだけ自分自身のことに触れておきますと、中学生の時に、なんと県知事賞をもらったことがあります。

模範生徒賞という立派な賞です。


勉強も運動も出来る子は居ますが、私は無駄に正義感が強くて、いじめっ子のヤンキーを制圧して

不登校の子を学校に呼び戻した実績が高く評価されました。

この賞状のおかげで高校は選びたい放題でした。

両親自慢の息子でした。

そんな模範生徒が20年後、借金にまみれて犯罪を犯そうとしていました。

妻は寝室に逃げてくれました。そして家庭内別居を提案しルールを設けました。

(空間を別ける、喋らない、連絡はメールのみ)

そのメールの1つに自助会への参加と心療内科への通院がありました。

私は妻との関係を元に戻したくて自助会に通い始めました。

そうです。1つ目の階段は

妻との関係のためにギャンブルをやめたいと真剣に願った

という階段でした。

2つ目の階段は自助会に通って3ヶ月くらいで見つけることが出来ました。

私はそのころ家に居場所がないので自助会ばかり通っていました。

そして当時、既に回復に向かっている仲間たちを数人見つけました。

何よりも、その仲間たちは、僕が一切してこなかった傷つけた人たちへの埋め合わせとか

謝ったけど許されなかったみたいな話をポジディブに話していたんです。

ウソも怒りもいがみ合いもなくて、すごく正直で、自分の失敗談を淡々と人に話していく。

僕はそれまでの生き方で、本名も知らない他人に対して、そういう事をしたことがありませんでした。

でもステップを実践している人の話は聞いていて衝撃を受けました。

僕も、あの人のようになりたい。

と真剣に思えたのです。人生で初めての経験でした。

ちなみに皆さんには、こんな経験はありませんか。

『昔から自分の考え方や捉え方はちょっとだけ人と違う』

とか『とりあえずもモヤっとするけど、皆賛成しているから賛成しておこうか』みたいな感覚なんですが。

私には、そんな感覚がずっとあったので、正直に言えば、周りの友達っぽい人たちに

心を開いたことがありませんでした。

ずっと心を閉じながら、それでも近くに居てくれる人たちにはニコニコしていました。

違うなぁと思っても反対しない。

ずっと人に合わせるための仮面をかぶりながら生きてきたんです。

でもGAの仲間たちは、そのちょっとだけ違う部分が一致していたんです。

心の底から笑い合う輪の中で、私はこの人たちと一緒に辞めていきたいと思えました。

仮面を外しても誰も否定しませんでした。

『そんなのあるあるだよー』と言ってハグしてくれました。

私にとって初めての経験ですが、

他人と同じ空間に居て楽しい。この空間にずっと居たい。

仲間とずっと過ごしていたい。

心の底から、そう思えたんです。

ステップを学んでから、その思いは強くなりました。自分のために辞め続けたい。

そして自分も回復したいと思うようになりました。

それが2つ目の階段でした。

3つ目の階段が生まれたのは、ここ東北の地です。

それが今日、私がここにいる最大の理由です。

もう10年以上前の話になりますが

当時営業マンだった私は東北エリアを担当していて関東から出てきて出張ばかりしていました。

しかし頭の中でどんどん膨らんでしまった異物が血管を切って出張中に脳内出血を起こしました。

ビジネスホテルで倒れているのを発見され、緊急病院に運ばれ手術をしたあと

そのまま入院となりました。

今だからサラッと言いますが一ヶ月後に告知されたのは

ステージⅢの悪性脳腫瘍でした。

地元でもない仙台の病院での出来事です。

家族は頻繁には来れません。

命は繋がったけど、丸坊主で右目が開かなくなっていました。

頭にはメスが入った跡もありました。刈られた頭にはフランケンのような杭が打たれていました。

何より2日間意識なかったようで、目覚めた時には集中治療室にいました。

何か分からないけど、やっちまった感だけ残りました。

病名も不明。でも死にかけた所を医者に救われたらしい。

あんな大きな異物だったのに命が繋がって良かったね。

そんな言葉を看護師さんからかけられても、全く受け入れられませんでした。

不安しかない中、集中治療室から出られた私はSNSを使って自分の状況を発信しました。

GAメンバーに対する連絡事項とかスポンシーさんたちに対して、ちょっと待っててね〜と呼びかける内容です。

そんな中、今日の主催者の仲間たちが、夜勤の仕事明けに片道2時間以上かけて入院中の私のところへ来てくれました。

私は驚きしかありませんでした。本名も知らない千葉県の仲間の為に駆けつけてくれたんです。

病院だって焦りますよ、さちさん居ますか?ってアノニマスネームで言われてもね。

事前に本名と面会場所を伝え短い時間でしたが面会することが出来ました。

私は淋しくて怖くて、不安ばかりの入院生活でしたが

その仲間は東北の自助会の会場を駆けずり回って色紙に励ましのコメントを集めてくれました。

あれは本当に救われました。

何回も読み直し何回も泣きました。

そして関東に戻り抗がん剤や放射線治療が始まると髪の毛が抜けました。

そうなる前に、その仲間は帽子を作ってくれました。

冬用の分厚い帽子、夏用の涼しい帽子。

私は半年間、会社を休みましたが、半年後に初出社から約2年間、髪の毛が生え揃っても、その帽子を被り続けました。

2年間、生きられれば生存率は高くなるって何かに書いてあったので。

ならば2年間、仲間の帽子に頼ろう。と考えました。

帽子に込められた祈りのおかげで、きっと私は今も生き延びられているんだと思います。

3つ目の階段は、私の命を救ったこの東北の仲間に対する恩返しの気持ちです。

彼女たちのおかげで私は今、生きています。

だから私は必ず恩を返そうと決めています。

そう思えたらギャンブルのギャの字も浮かびません。

第三の階段は
仲間のために生きてギャンブルをやめ続けて恩返しをしようと思えたことです。

名前は出しません。出しおませんがお礼だけは何回も言わせてください。

本当にありがとうございました。

(原稿上も4段目の始まりは以下の通り書いています)

最後の4段目の話なんか、もうしなくて良いですか(笑)?

とは言え4段目についてです。

私の悪性脳腫瘍を受けて妻は、子供を残したいと考え始めてくれるようになりました。

高齢と言ってよいのかな。三十代ギリギリで子供をもうけました。

生まれた子供は本当に天使です。

その天使には自閉症と重度知的障がいがあります。

僕はこの子を支える親として依存行為は手放さなきゃならないんです。

それが僕の4段目です。

障がい児モデル

最後に、テーマを回収するように話を繋げますが

行動して見えてきたものについてお話をします。

僕は自分で他人に対して壁を作っていました。

ピエロのように仮面を被りニコニコしている顔とは別に裏の顔を持ったまま育ってきました。

自助会では仮面を外せました。

腹の底から笑い仲間を心底信頼できるようになりました。

東北では仲間の無償の愛を感じられるまでになりました。

この経験を積んでからは社会人としても高い評価を得るようになりました。

『昔は本当にイヤなヤツだったな』って先輩が過去形で語ってくれるようになりました。

借金は数年かけて全額コツコツと返済しました。

妻と子供を連れて海外旅行にも行けるようになりました。

障がいを持つ子供を育てるのは本当に大変ですが、私は幸せな日々を過ごしています。

行動してきて見えたものは3つあります。

・1つ目は過去は過去、現在を幸せに生きるためには過去を清算しながら前を向くのが大事ってこと

・2つ目は自分一人ではどうしようも無いから他人に対して謙虚に助けを求める姿勢が大事ということ

・そして何より信頼できる仲間が一人でも居て、回復のためのプログラムに従えば、ほとんどの問題は解決するということです。

依存に苦しんでいる方が、この会場にいらっしゃるのであれば、一人でも多くの信頼できる仲間を見つけてください。

その人達は、必ずあなたの財産になります。

たったの15年かもしれませんが依存を手放し続けている僕からのメッセージです。

最新情報をチェックしよう!

ギャンブル依存症についての最新記事4件

Created with Visual Composer