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僕は髪の毛が、うっすらと伸びかけた時に家に帰された。今後の治療は抗がん剤、テモダール治療と放射線治療。

後は、ガンセンターには関係ないが見えなくなってる右目の回復が必要でした。

先生いわく、ガン細胞は取りきったのだが、もし、、もし、画像でも捕らえられない見えない程小さなガン細胞が残っていたら・・

という念には念の治療らしい。念には念の治療なのに寿命を縮める思いで治療に挑まなくてはならない。

それほどに僕が罹患した病は重かった事を再認識した。

まず、抗がん剤テモダール

食間に服用するカプセル。というか、食後5時間以上空けねばならないので、朝5時に起きてテモダールを始め

気持ち悪くならないように酔い止め薬と荒れる胃壁を保護するための胃薬と、便秘にならないように

マグネシウムを取ることになる。飲んだ後は、気持ち悪さで吐かないように再度寝る。

普段飲まない水を一杯飲まないと便秘が治らず週に2回程度しか出なくなる。ガスも溜まるから厄介。

毎日のルーチンではなく月に1週間だけ。こう書くと、なんだ!毎日じゃないのに大袈裟だな!と思われるかもしれないが

そういう薬は1ヶ月連続で服用出来るほど身体への負担は軽くないと思ってもらえれば良いかも。

事実、体は重くなり、横になる時間は極端に増えるし子供のように長時間寝てしまう。

テモダールは、脳腫瘍の抗がん剤としては王道のようですが、風邪などをひいて内科に行くと先生方も、ん?となるマイナーな薬。

そんな治療を12か月続ける事になる。

次に問題は放射線治療。

身体への負担が比較的小さいという中性子線治療。ブログのキャッチ画像にしてる大掛かりな機械です。

ヘッドギアを作り、誤っても他の箇所へ照射しないように、石膏で覆う。どこかの宗教のようにヘッドギアを被り

ただ数十秒照射して終わり。これは1ヶ月半くらい(GWまたぎだからかな)。毎日必要なので(月)~(金)は通院。

通い始めて3週間後。お風呂で、短く伸びた髪の毛を洗っていたら、照射箇所の髪が抜け落ちて排水口が詰まる。

なぜか妻を呼び髪の毛が抜けたことを伝えた。妻は冷静に『髪の毛は抜けますって言われてたでしょ』と返した。

僕はただ、比較的順調に回復路線を歩いてる自分が、まるで悪化するような表出症状に堪えられなかっただけかもしれない。

髪の毛が、ごっそり抜けたのは本当にショックでした。

そんな治療をしながら月に1回採血をしてMRI 。視力検査を行う。

視力は正確に言えば右目を上、真ん中、下と3分割した時の真ん中の視界が失くなっていて、それを上と下でカバーしていたようでした。

『貴方の眼は見えていない部分がある』

と言われて先生を恨むわけにもいかなず、ただガンに侵され繋いでもらった命に感謝するしかなかった。

とりあえず生き続ける事。まさか【生きる事】が目標になる人生を僕は想定していなかった。

退院後3ヶ月は、ただ通院して、暇な時間にクックパッドを見ながら料理を作り、テレビを観て、疲れたら寝る。

それだけを繰り返す日々でした。美味しい料理が作れたときには嬉しかったけど、覇気の無い日々を過ごしたと思う。

3ヶ月経った頃、会社への通勤訓練の助言を受ける。【こちとら毎日電車に乗り通院してるんだから、通勤くらいは出来るよ】

と、軽く見ていたが満員電車は異常なまでに精神的に削られ、疲れた。会社の下まで行き同じ道を帰る。

帰りはさすがに下り線なので混んでいない。僕は爆睡しながら帰り、リハビリが必要と悟った。

そこから2週間はただ、通院した後、会社に向かい帰るのをルーチンにしていた。

仙台で1ヶ月入院、自宅待機(というか僕がゴネて)数週間。東京で1ヶ月入院、3ヶ月の通院。

都合5ヶ月以上会社を休んでも、まだ社会復帰出来ない自分に焦燥感が芽生える。当時はまだ38歳。

人生でやり残してる事が一杯ある。とにかくリハビリに励んだ。

会社の上司、人事部、病院の担当医、産業医が連携し盆明けから時短勤務が始まった。

頭には帽子を被り、8キロ以上痩せ細り、明らかな病人に対して誰も声をかけてくれない。

僕は自分から積極的に声をかけ大丈夫とPR したが誰も信じてくれなかった。ガンサバイバーは低い確率。

予備知識もなく単純にガン=死に近いと思われてるのがよくわかった。

僕は明るく振る舞い早く会社の中でのポジションを獲得するしかなかった。

ここで僕は英語力を活かしてポジションを作ることとなる。ステークホルダーに対する交渉を英語で行い文章を残すミッションを受ける。

海外での経験があるからこそゲット出来たポジション。海外に出ることを許した親に感謝しつつ時短勤務をこなす。

11月頃、抜けていた髪の毛が生え揃ってきた。僕は帽子を脱いで傷跡残る頭を晒しながら出勤した。

2月14日に倒れてから、もう9ヶ月が経とうとする時、僕は再発の恐れと抗がん剤の副作用の恐怖と戦っていた。

今思えば、あっという間の1年だったが、あっという間、と言えないくらいツラく思い通りに生きられない期間でした。

僕は、とにかく自助会に参加して自分の状況を分かち合い仲間たちからの励ましを受けた。

それしかストレスを発散できなかったとも言いますが(-_-;)とにかく1人じゃない!と思いたかった。

実際に仲間たちは優しかったから、支えられていたのですが。

2月14日を1週間以上越えたときに血液検査とMRI の結果を聞いた。

再発は見当たりません。

抗がん剤治療も終えた僕は、大きなガッツポーズをした。再発は二年以内に起こることが多く

二年以内の中でも、何らかの兆候が現れ始めるのは1年以内が多いらしい。

その1年間が過ぎたんだから、ひとまずの安心と、少しの不安が交錯する時期だった。

もう一度、あのドキドキを体験したいか問われたらNOです。冗談でもイヤです。

少しずつ社会人に戻りつつ、それでもずっと腫れ物に触るような存在。とにかく2年は我慢しよう。

そう思いながら僕自身も自分の完全な回復に疑いを拭いきれない1年を過ごした。

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