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関東に戻った僕は国立のガンセンターにお世話になることに決めた。

最もお堅いだろうし、なんといっても国立!

何かとメリットがあるだろうと打算的な考えもあったし

家からの距離や設備の充実感、キレイさが気に入っていた

MRI を受け、東北で起こった意識不明までの顛末を話す。

先生『地方で倒れたのに、向かった病院が(その地域では超有名な)○○病院』

『脳内出血が酷かったのに、遅れずに助かった。』

『5センチ大の腫瘍がステージ3で取りきった?ほぉー』

『そして今、生きて、ここにいる!驚きの連続だなぁ』

脳外科のトップが面会対応してくれた。

それほどに東北の有名病院の紹介状のインパクトが大きかったらしい。

僕は安心した。もう大丈夫だ。

しかし、このあと、全然大丈夫じゃない1年を迎えることになるとは、この時は欠片も考えていない。

脳外科のトップは、後任の先生に引き継いだ。

後任の先生も同じく僕の悪運に驚き

先週撮ったMRI 画像を見ながら言った。

『ガン細胞を全部取り切れてるとは言えない、僕が見る限りガン細胞は残ってるからね』

僕は信じられなかった。

東北のスーパードクター的な先生にオペしてもらい僕は命を救われたから。

『がん細胞は取りきったよ。』

あの言葉は嘘だったのか。。

先生は続けた。

『でも出血もあって、命を繋ぐ残時間が少ない中なら、最善のオペだったんじゃないか?』

『僕でも出来ないと思うよ。一回目の手術は命が助かった手術。今回はガンを取りきる手術と考えて手術をしよう』

先生は感情をいれずに簡単に言ってきた。

いやいや、ちょっと待って欲しい。

髪の毛がうっすらと生えてきて、抜杭(抜糸ではなく頭の傷を縫ってる金属の杭を切り抜くこと)が終わったばかり。

また手術やるの?

僕には決心する勇気がなかったし

正直、、、生きる気力が萎えた。

MRI とは異なるPET検査を受けたらどうだと勧められた。

これで真偽はハッキリするから、と。

僕はほんの1%でも良いから先生の言ってる事を否定する結果が欲しかった。

結果は1週間程度ですぐに示された。

赤色に変わった部分がガン細胞です。

そう言われて見せられた僕の頭部。

前回の手術で取った脳内には5センチ大の空洞。

そして、確かに写る赤い塊がいた。

見たくもない画像だった。

受け止めきれない画像だった。

いやだ。

もういやだ。

意識あるのに眠らされたら

死ぬかも知れないリスクを背負うなんて

本当にイヤだ。

誰にもサヨナラを言えていない。

目が見えない人生。そもそも人生は残ってるのか?

小学生みたい。

カッコ悪い。バカみたい。

何ごちゃごちゃ言ってるの?

頭の中に聞こえる色んな声を掻き消すほどの恐怖。

僕には即断出来なかった。

耐えられず時間をもらうことにした。

しかし病院のベッド数にも余裕はない。

僕がごねてる間に救える命が救えなくなる可能性がある。

分かってる。最低のワガママ。

でも待ってほしかった。

僕の判断は一週間以内というタイムリミットを設けられた。

進行の早いステージ3のガンの残存。

一刻も早い手術が生死を分ける事くらいは頭の中で理解をしてる。

大人がかかる小児ガン。

症例も少なく放っておいて良いはずがない。

でも、そういう事よりも恐怖が先に立ち決心できないでいる。

僕はこんな時、どうしたら良いんだろう。。

そんなときに思い出す。

東北で受けた仲間たちの愛。

そうだ。仲間たちへ。

もう一度僕に勇気をください。

僕は、SNS の日記で投げ掛けた。

来週、自助会に行きます。

僕に勇気を下さい。。。

で僕は開かない右目を隠すための眼帯と、傷跡を隠すための帽子を被り自助会に参加した。

テーマは忘れました。

とにかく僕の心境を話そうと思ったら

声にならずボロボロ泣いてしまった。

安心感と

悔しさと

助けて欲しい子供のような感覚。

甘えたい感覚。

包まれたい感覚。

そこにあった温かさ。

ミーティング前に、ある仲間が色紙と手造りのパウンドケーキをくれた。

東北で色紙をもらった事は伝わってないはずなのに

同じ事を仲間をしてくれた。

僕は泣くしかなかった。

さちさんの為に来た。

生きて欲しい。

勇気を出して生きて欲しい。

そういう人たちがミーティング会場にきた。

そんな言葉を貰ったら泣くしかないでしょ。

僕はずっと泣いていた。

そして家に帰った僕は

手術を決心し、その旨を妻に伝えた。

これが、3月末の出来事。

先生からは4月4日に入院し

すぐに手術をするよう勧められた。。。

が、その日は僕の誕生日だった。

もしかしたら人生で最後の誕生日。

妻と過ごしたくて

僕は1日ずらして欲しいと懇願した。

ありがたくも病院は認めてくれたので

僕たちは人生で最も緊張した誕生日を過ごした。

二人とも笑顔は引きつった。

話題は・・

病院のこと、先生のことばかりだった。

誕生日に承諾書に署名をした。

最悪命を落とす可能性がある。

神経を傷つけると様々な障害の可能性がある。

手術をしても、ガンの進行が止まらないこともある。

予測できない事態も起こりうる。

つまり、手術を受けるって決めたのも自分自身だから

自分の選択に責任を取ってね、医者はベストを尽くすから。

と言うことらしい。

知ってるよ、すでに一回経験してるから、あの時は緊急事態だから署名してないけどね。

僕は全身麻酔が効き意識がなくなる直前まで祈った。

手術時間は3時間弱、麻酔が切れたのは30分後くらいだったかな。

おっ、ちょうど起きたね。

最初に見た顔は妻だった。僕は手術の成功を察した。

同時に目も見開いてみたが手術前と変わらず開いた。

嗅覚も失う恐れがあったが

病院臭さを感じられたので何の障害もないと直感で感じた。

生きてる。良かった。今のところ何も失われていない。。

少しずつ安堵感に満たされるようになった。

そして僕は自分が罹患したガンの恐ろしさを後に知り

治療が体に及ぼす負担を体験する1年を過ごすことになる。

続く→術後のブログへ。

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