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抗がん剤治療を終え、いわゆる薬は手放した。ここからの1年が今後の人生を分ける事くらいは分かっていた。

毎月のMRI、血液検査。3ヶ月に1回の視力検査。何もない事を祈りながら、時短勤務を解かれた僕は日常に戻った。

毎度MRI の結果を気にしてくれる妻は、毎度MRI を受けたその日に結果を聞いてくる。

結果は先生の診察の時だから、毎度『今日じゃないよ』と伝える。でも、このやり取りがルーチン。

僕の生活を支える1場面だった。

ある日、最寄り駅の近くのパスタ屋で妻と食事をした時、1年を振り返り妻は涙を流した。

僕らの人生は上手くいかないことばかりだった。僕は彼女に迷惑をかけている側なので聴くことしか出来なかった。

妻は僕が最初に倒れた仙台へ訪問したがった。助けてくれた同僚たちに御礼がしたいとの事でした。

僕たちは先方と都合を併せ仙台を訪れた。同僚の1人は妻と同郷のようで地元の話で盛り上がっていた。

それからも何度も仙台を訪れる度、同僚や病院の看護師さん、リハビリスタッフに会いに行き回復を見てもらった。

前にも書いたけど生きているだけで必死だった時期から少しずつ、僕は人の役にたてるようになりたいと思い始め

経験者として、苦しむガン患者と家族の相談を受け始めた。

しかし、その活動もこの1年で辞めざるを得なくなる。約束の時間に面会が出来ず、後に亡くなった話を聞く。

僕は正しいことをしているのか?もしかしたら、すごく薄い確率で生き残れていて他の人には難しいんじゃないか?

病院で知り合い、苦しんでいる姿を見ていた方の死は僕に無力感を残した。僕は相談活動を辞めた。

通院の日、時間に開催されていても立ち寄らないようにした。僕の精神が持たないと感じたから。

一方で僕の診察では【変化なし・再発は見られない】判断が続いた。

不思議な事に2年を前にして視界が失くなった右目の真ん中部分は見えるようになった(らしい)

視力は変わらなかったが、医学的な判断で消えた視界が戻ったことは教えられた。全く実感は無かったが。。

そして術後2年経った診察で、僕は変わらない診断【再発なし】との診断を受けた。

再発は2年以内が大半という事実を聞いたことがある僕は先生の

『まだまだ安心は出来ない、ステージ3のガンという君の病気なんだ。安心は出来ない』

という先生の言葉も胸を打たず僕は心の中で飛び上がって喜んだ。

随分遊んでいなかったので(笑)両親への報告で帰省したゴールデンウィークにカラオケを楽しんだ。

随分浮かれていた。

でも、それほどに辛い期間は長かった。と感じた1年だった。

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