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意識が戻った16日以来、ずっとベッドの上。

頭から取り出した検体を病理診断の結果が出るまで

何の変化もない部屋の中で僕は過ごさなければならなかった。

6人部屋に移ってからも同室の人たちとは話もせず

ただずっと携帯をいじって仲間たちに連絡をしていた。

僕が通う自助会の中心的な役割があったので、その時に来ていた

仲間たちへ引き継ぐのに必死だった。いつ、退院できるか分からない不安。

僕はその気持ちを打ち消すようにカッコ良い言葉で日記で綴った。

2月下旬の仙台で雪が積もった。

遠くに見える緑の山。

その麓にある青い屋根の家々に雪が降る。

5時の朝陽に反射する雪の色。

青と白、緑と銀色。

カッコいい事を書いて

とにかく【僕は元気だよ】とメッセージを送りたかった。

そんな時、自助会の東北の仲間が連絡をくれた。お見舞いに行きますと。

一人は、僕が出席した東北の集いで同室になった仲間A。

そして、もう一組。夫婦で、同じく東北の集いで顔を合わせた仲間B君 Cさん。

共に、それまでは、それほどの距離感では無かったけど、A君は、それからの人生の変化を楽しそうに語り

『さちさんは大丈夫。しぶといから』

と独特の表現でエールをくれた。

B君、Cさん。特にCさんは集いで会った時に、この人がさちさんか!

と思ったと聞きました。

僕が日記を書いていたSNS で知り、そして東北の集いで出逢った。

お見舞いに来てくれて、仲間たちの心配の声を載せた色紙を届けてくれた。

かわいいウサギの色紙に書かれた仲間たちのメッセージ。

きっとGA 会場を廻って、SNS で知った僕の症状を伝えメッセージを寄せてくれたんでしょう。

見た瞬間、感動して泣きそうになったけど、照れ臭くて泣けなかった。

二人が帰ってから思いっきり泣きましたけどね。

後日、Cさんが手造りで作ってくれた帽子を送ってくれた。

この帽子は彼女の心遣い。丸坊主で大きな切り傷が残る僕を長期間に渡り助ける事になる。

片道3時間以上かけてきたB 君、Cさん。

しかも仕事前の睡眠が必要な時間に来てくれた。本当に感謝!!

何度もお伝えするけど僕は、ずっと感謝を忘れないよ(⌒‐⌒)

僕は誰かに愛されている。

その事実が嬉しかった。

ちなみに、僕の源家族は

東北が遠いとかバイト、ボランティアが忙しくて休めない

という理由で父と兄が見舞いには来ませんでした。

しかし、うちはそういう家族なので仕方ないんです。

機能不全というか愛情の表現方法が他と違うというか。

お義母さんは、随分気にされてたようでしたが、我が家って、こうなんです。

ごめんなさいね。お義母さん。

付きっきり看護は妻とお義母さんが交代しながら。

サプライズ訪問は会社の同僚と自助の仲間たち。

すごく不謹慎な発言ですが・・・

病気のお陰で僕は妻と妻の家族、仲間たち、会社の人たちと思いっきり距離が縮まったように感じてます。

生き方を変える前の僕は会社でも【面倒くさい若手】だっただろうし

先輩方から嫌われてるのを分かっていて埋め合わせも足りていませんでした。

そんな僕は先輩たちから【仕事中に倒れ死にかけた可哀想な後輩】になった。

距離を縮めるキッカケになったのは間違いない。

また、地元の仲間たちと1、2回しか会ってない地方の仲間と距離感が違っていた事を反省した。

仲間たちはもっと深い愛情で仲間である僕を見守ってくれていたのに

先に書いたB 君に『なんで、わざわざ見舞いに来てくれたの?』と聞いてみた。

『仲間が地元から遠く離れた東北で入院して大変と聞いたら、見舞いには行くよ。』と

当たり前のように言われたのが新鮮だった。僕にとっては遠くから来てくれた、この夫妻は今でもソウルメイトだ。

さて、長い期間を要した病理の結果ですが、ステージⅢの退形成性上衣腫でした。

通常、子供が罹患する小児ガンの様子。

37歳の僕が小児ガン?受け入れる余裕もないまま退院の手続きが進んだ。

相変わらず目は見えないし、ほぼ坊主。開頭した大きな痕が残る病人。

抜杭(ばっこう)し開けた頭の傷がくっついたか確認した時

ペンチみたいなハサミで杭を切り頭から抜く。

気持ちわるーい感触は今でも忘れない。。

こんな状態でも今後は地元に帰ってから方針を決めなければならなかった。

僕はリハビリついでに病院の外を歩いてみた。

小さな石が凸凹として足の裏に感覚的に伝わったかと思えば

段差を乗り越える筋肉さえも落ちていて一瞬で筋肉痛になる感じでした。

足の裏の凸凹が刺激として痛すぎて、30分も歩けない。

オーバーではなく、これが1ヶ月間横になって生活をした報いだった。

僕はリハビリのつもりで頑張った。

新幹線に乗って家に帰るという一大イベントの為にも。。。

そして

3月10日。東北新幹線に乗り東京へ。

ずっとドキドキしていた。ずっと妻の緊張感が伝わりながら地元に帰ってきた。

見えない右目には眼帯をした。電車の揺れが辛かった。

快速線はグリーン車を使った。

きっと2月16日に起きてから一番緊張した日だったと思う。

僕の命を救ってくれた東北の病院、仲間たちに感謝しつつ帰省した。

いや、帰省できた。

しかしまた、地元の病院で僕は

起承転結の’転’を迎えることになる。

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